いまはインクルージョンと言っていますが、
統合教育とか統合保育とかいうもので、障害のある無しに関わらずに、一人一人を個別化して、障害を持っている子供も、障害を持っていない子供も、その子に必要な保育や教育を提供していきましょうとする考えです。
やはりインクルージョンも個別化が土台にあります。
いまは、対人サービスに、投資していないので、いわゆる人材がすくないです、
福祉労働者は、その業務にみあった賃金を得ていないからという問題もあるし、福祉は誰でもできるし、家庭や地域の協力で賄えというのが、日本の特徴です。一方、日本は、障害を抱えた人への差別や忌み嫌うという宗教的な価値を含んだ排斥があり、なかなか、インクルージョンはすすみません。
権利の主張は虚しく響きます。日本は、やはり本物のチャリティーが欠如していて、形式的だし、障害や病気を抱えるのも自己責任だという観念があると思います。
障害や病気は、適切なセルフケアをしていても抱えるのです。
自分から不健康になり、自分を傷つけるならば話は別ですが、
生まれつきとか、誰かによって傷つけられるとか、突発的な病気とか、それにより障害や生活に大きな支障を抱えているならば、適切な支援が必要です。
それを日本は、自己責任で片付けてしまいます。
非常にお粗末な考えを大切にしています。
なんでも自分でやるのが立派という価値なので、障害や難病などを抱えた人々は、見下され排斥されてしまい、排除される社会です。
昔から、障害を抱えた人々の施設は山奥に建てたりしていました、障害者施設の建設反対運動がおきたりして、街中に施設が無いのです。
高齢者施設でさえ、昔はそうでした。
養老院とか言われて、郊外に建設されたりもしていました。
精神疾患を抱えた人は、座敷牢でした。
また、精神科病院に、強制入院で拘束や刑務所のような保護室に鍵を二重にされて決して自由には過ごせないのです。
社会の人々や地域の人々に支障や迷惑になるからと排斥し排除し監禁するという思想です。
社会福祉は、一人一人を大切に大事にしていくアプローチです。基本は個別化で、その人の主体性や自主性を尊重します。
それは、一人一人がユニークであり、それぞれにタラントがあり、一人一人、非常に貴重な存在だから、その人にある力を引き出す事柄を本人と一緒に丁寧に地道に協働作業をしていくプロセスなのです。
枠に当てはめたり、分類したり、指示命令指導管理監督教唆教示教育支配操作などは無い、その人と共にタラントを活用し、力をひき出し、共に作り上げていく、または、タラントを農作物を養い育むように、当事者と一緒に成育していく作業過程です。
あなたは、こうだと断定しないで、あなたにはどんないいものがあるかなあと宝探しをしながらワクワクした冒険をするような作業プロセスなのです。
定型は無くて、個人個人の特性や才能や特徴を最大限に引き出し十二分に活用し、さらに自尊心を充実させ、ストレングスを増やします。ストレングスは、力とか、柔軟性です、
マルチな思考能力とか認知能力とか、生きる力です、臨機応変さを養う事です。
障害や病気もタラントの一つで、その人の特性だし、排斥する物では決してありません。
障害や病気を抱えながら、自分の存在を喜び活き活きと生きる事は充分に可能です。
臨機応変に柔軟に生きる力を養い育むのがインクルージョンの目的で、小さな子供のころから、障害を抱えた子も障害を抱えていない子も一緒に過ごして、同じ人間として、互いに尊重し、互い協力し協働して生活して行こうという目標が必然的にあるのです。
自分は障害児教育にも携わってきましたが、大学では一般の教職課程と障害児教育の課程も選択していましたが、ソーシャルワークの資格を優先して教師免許は取りませんでした。
実際には、都内の小学校で特別支援クラスの子供達の教育支援を行っていましたが、
教育の問題より、やはり、障害を抱えている子供を撮り囲む環境が抱えている問題の方が問題でした。
障害というのは状態であり、急な変化は期待できません、むしろ脳の機能障害の状態や身体の機能障害の状態を保持し、その障害を抱えた状態であると誠実に受け止めて、その子にあるタラントを発見し、一緒に養育して、おがらす、という協働作業で、互いに尊重しあう関係を維持して能力を引き出し、力を強化するという課程です。
障害や病気を無くす事では無くて、障害や病気を抱えた状態で、本人にある才能を活かせる支援を実践していきます、
主体は一人一人の子供です。
だから、義務でも無いし、あてがいでもないし、強制強要操作も無いです、
いつも個人個人との対話を繰り返します。
基本は傾聴と受容です。
それを誠実に実践していくと、
認知の変化が生じます、それは互いによりよく知り合うからです。
子供でも大人でも、
ノーマライゼーションという言葉がありますが、障害があるなし関係なく、一人の人てしての当たり前の生活を維持できるようにみなで互い協力しあって人としと豊かに生きていきましょうという考えとその為の具体的な実践です。
自分は30年前には大学で学び、当時は横浜で暮らしていましたから、ノーマライゼーションの実践を地道にしていました。
社会福祉は実践なので、障害あるなし関係無く、どんな状態にある人でもよりよく暮らしていける社会の構築や創造を目指すものです。ある特権のある人々だけが自主自由で生きられる社会では無くて、重度の障害があっても、その人が主体的に活き活き、自分が存在している事柄に喜びながら、他の人々とも互いに尊重し合いながら自分の人生をより豊かにして生涯を実りある価値のあるものに出来るように側面的に支援する過程全部が社会福祉の実践で、ソーシャルワークの実践そのものです。
教育における社会福祉は、やっと最近の受け止められてきました、それはいじめや児童虐待の問題があるからです。
いじめや虐待などマルトリートメントにより、子供の身体や心や脳へのダメージがあると言う事柄がハッキリしてきたからです。
子供の人権擁護がどうしても必要です。
大人たちの一方的な価値の押し付けをして、子供自身が傷つけられ侵害されたりするのは予防しなければなりませんし、また、子供の人権侵害があるならば子供の人権擁護を積極的に実施しなければなりません。
権利は、自己主張とかではありません、
まさに、人として当たり前の事柄です。
みな人ですから、子供でも大人でも、一人の人として十二分に尊重され大切に大事にされ、個別に人として当たり前の事柄を保証されている状態です。
権利は、rightと英語ではいいます。
正しいといいみだし、当たり前という意味です。
人としての必要性を十分に充足される事です。
すなわちニーズです。
安心安全の確保や衣食住とか、睡眠、食事、運動、学習や労働、家族や地域の人々との良好なコミュニケーションや交流、互い尊重して滋養的に世話しあう関係や愛し合う関係の維持など、一人の人として、障害のある無しに関係無く、人としてのニーズを満たして生活を営んで生きていける事です。
みんな一人一人の基本的な必要性です、基本的なニーズです、
障害を抱えていても、人としての基本的なニーズを充足できるようにしようとみなで協働して具体的に実践するのがノーマライゼーションの内容です。
人の社会は、いつも流動的で変化に富んでいます。
健康な人でも、病気や障害を抱え、いままでの生活に支障を抱えるのは、よくあります。
ゆえに、どんな状態になっても一人の人として、生活をより豊かに維持でき生涯を閉じられるようにしていくのが社会福祉の実践です。
そういう意味から、人生の始まりである子供時代に、障害を抱えている子と障害を抱えていない子の交流やコミュニケーションを積極的に促し、互いに一人一人尊重し合う関係を形成し構築して、人として対等に付き合えるように配慮していく必要があります、ゆえに、統合教育とか、インクルージョンとかインテグレートなるいわゆる統合という言葉を採用して、各地でも実践はされています。
しかし、日本ではなかなか効果が上がっていません、やはり差別や偏見は未だにあります、
それは、個人個人の認知に支障があるからです。
障害や病気を忌み嫌うという事柄です。
もちろん、障害や病気を出来るならば抱えたく無いと思いますが、しかし、障害や病気を抱えている人は実際に存在しています、
障害や病気を抱えていない人は、明日は我が身かもしれません、
最悪の状態になってしまったら、どうやって生きて行くかをイメージしたらいいです、
秋田は、自殺者が多いです、
末期がんと診断された男性なども自殺しています。
自分の深刻な病気を受け止め切れないで、自殺を選択してしまう場合もあります。
自分の人生のイメージと違う事態に遭遇してしまい途方にくれて自分で自分を裁き自殺してしまいます。
病気や障害を抱えて生きる自分をゆるせ無いからです。
それは病気や障害を抱えて生きるている人に対しての差別心や忌み嫌う心や認識や認知を内在させているからです。
例えば脳溢血で倒れて寝たきりの生活になってしまったら、自分ではほぼ何も自由には出来なく成ります。
生きるには必要な適切な支援が必要です。
支援の内容は様々です。
また、必要とされる支援も様々です。
既存では無いものもあるし、社会制度には無い必要とする支援もあります。
社会制度も不完全で、十分ではありませんから、利用したくても利用出来ない場合や、そもそも制度が無い場合もあります。
それは制度の狭間、ニッチといいます。隙間ともいいます。
つまり、一人一人の個別のニーズを充足するには、やはり、パーソナルサービスが必要になるという事です。
50年くらい前のイギリスの社会哲学者の有名や学者さんが、これからは、カウンセリングマインドを持っている専門職を養成して、パーソナルサービス社会を構築するのが賢明だとそう論文で述べています。
脱産業化社会のモデルとして、パーソナルサービス社会を提示しています。
今正にその流れがあります、AIなどの科学技術の革新により、生活は一変します、
機械機器は自動化し、産業もほぼ自動化していく社会で、人間が物化では無く、個別化して、さらに一人一人の生活をより充足していこうとする社会です。
それには、カウンセリングがやはり重要に成ります、その人の個別の思いを傾聴し受容する態度が必要に成ります。
また、人と人との対等なコミュニケーション能力も必要に成ります。
日本人同士だけで無く、世界中の国々の人々とのコミュニケーションが必要になります。
言語は翻訳機器がやってくれますから、問題は自分の中身です、自分の内容が何かというのが重要に成ります。
障害や病気を抱えているとかいないは、支障が無くて、自己の内面に何があるかがこれからますます重要な価値に成ります。
それは正にタラントです、一人一人にはじめから備えられているもの、宝物です、
その人を活かす為の宝物です。
これを特に親と子は互いに探して発見し宝物を大いに活用して、自分を活かす肥しにしていく事が賢明です。
それには、親と子の適切なコミュニケーションが必要だし、互い尊重する真心と敬愛が必要です。
親だからとか子だからとか権威や立場などの役割属性は関係無く、一人の人、一個人の個別な人として、互い向き合うし、互い互いを誠実に受け止めるという作業を繰り返して行く事が重要です。
人としての基本的な態度を学習していく事です。
いつも対等な関係を維持する事です。
パーソナルサービスは、まさに、クライアントと支援者は対等です。
カウンセリングマインドとは、個別化して、一人の人として大切に大事にし尊重していく作業が重要なんだよという考えの事で、また、その知識や技能や態度の事です、
これは、よりよい社会のしくみを作り上げていくまさにアートでもあります、
自然天然の環境は、厳しい事柄もあります、
しかし人間は、慈愛や仁慈とか、真心とか、良心を持っていますから、相互に思い遣りその真心は配りあえます。
傷つけ侵害し排除排斥排他的な関係を維持するよりも、互いに思いやり、より滋養的な世話をしあう関係を創造し維持する方が互いにメリットがあるという事です。
故に障害や病気を抱えていても、抱えていなくても、一人の人として十二分に自分自身を滋養的に養育してタラントを活かし人として豊かな人生を送ることができる継続した取り組みや支援や実践が必要だと言えます。
ソーシャルワーカー奥田力
(社会福祉士、精神保健福祉士)
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