自分で自分の有様に気がつく事です。
自分の思い言葉行い、つまり自分のあらゆる行為について思い巡らしよく観察して自己について気がつく作業です、
これは、ソーシャルワークでは当たり前の作業で、日々自分の仕事を振り返りますし、個人としての自分を振り返ります。
自分がクライアントに一体どんな思い言葉行いを提供しているのかを、常にチェックします。
感情というのは意図的に表出して、自己コントロールします。
自分という主体の思うがままには、行為をしないです。
全てクライアントのニーズを充足する為に、明確な役割と機能を持って支援サービスを提供していきます。
サービスの内容やプログラムなどは、様々です。クライアントを個別化する事により、クライアントの必要性を明らかにして、それについて、細部まで調べて、一つ一つのニーズをクライアント本人が充足できるように支援を提供していきます。
主体はクライアントです。
ソーシャルワークの主体は、自分です。
クライアントは生活上のニーズがありますが、同時に支障もあります。
クライアントの生活ニーズを充足する為には、クライアント自身が自己に気がつき、意識して目覚めている必要があります、自分の事柄についてより善く認識し認知し自分のあらゆる内容について誠実に受け止めて、自己の中の問題や課題を誠実に受け入れている、つまり自己のありのままを否認しないで、よくよく自分に気がついているという事です。
それはなかなかに簡単容易ではありません、
故に適切な支援は必要です、
きちんと自分の思い言葉行いを鮮明にして、一つ一つこれは何かを調べて鑑別していく作業行程です。
ソーシャルワークは簡単な内容ではありません、失敗の連続もあります、完全さは目指しますが、失敗も不完全さもいっぱいあります、ほどほどにという気持ち、不完全な自分をゆるす必要もあります、自分はこの部分はよくやっているなという内容も事柄も見詰めて評価します、
最終的な善悪の判断は、しません、
まずは、自分の行為全てを査定して、感情や気分も調べます、何故あの時はあの話をしたのかとか、その時はどんな感情や気分であったかとか、いろいろ調べます。
そして、より善くを目指していきます。
ですから、完璧だという言葉はありません、
常に最善、至高善を探求し探究し自己覚知し、自己鍛錬を繰り返す作業です。
それは、陶芸ににています、
一つの器を作りあげるには、土や気候や水や火や窯や全てをよく知り、そのコラボレーションですから、最後には、型を整えて、窯に入れて高温で焼き上げます、しかし、しつらえた場所によっても、火の勢いや火力によっても、また火の調節によっても違いが出てきます、自分の意志ではどうにもならない部分があります、土は火により化学変化しますから、物質的にも変化します。型も変化し、硬くなり、器としての価値がでます。
これは人も同じで、その人を活かす為の才能をよく観察しタラントの特性を見つめて、やはり鍛錬して火に相当する事柄を過ぎ越したらば非常に価値ある実りが得られます、
正にアート、技能です、
技術だけでは無く、哲学が備わって才能を有益に優位に利他できる人そのものを創出する為の連続した作業過程が自己覚知です、
クライアントは助けられている人では無くて、自分を主体として、よく自己を客体化して、よりよく自身の変容を自分自身に施していく必要があります、
誰かにアディクトしたり支配したり操作したりしないで、個人として、自分自身に責任を持ってかつ周りの環境にも配慮して、自分を生きていく必要があります。
自分だけの能力では生活になんらかの支障があるならば、適切な支援を利用していく必要もあります。
どんなに自己努力しても、生活が困難だし支障があるならば、自己の能力の限界を知り、適切な支援を自分を大切に大事に世話する為に利用した方が賢明だし、また、利用できる制度が無いならば、自分が主体的に創造していく事柄も、必要です。
今はいろいろな事業をおこしたり、企業もしやすい環境が構築されてきています。
小学生や中学生、高校生なども会社を立ち上げ、事業を興して社長さんとして実際に働いている子供もいます。
大人が従業員でいます。
子供が大人に従属するというのでは無く、大人も子供も対等な関係を維持して、互いに尊重し、かつ、個別の抱えるニーズを自覚して、共に協働していくという子供と大人のコラボレーションをしているスタイルです。
楽しく過ごすパターンです、
大人が子供に一方的に指示命令はしないアプローチです、
そもそも教育は、普通教育を子供に施す義務が子供の養育者にある義務ですから、
多くの親は学校にそれを丸投げしてきましたが、最近は、学校も変化してきています。
地域の人々の才能を提供してもらい子供達の教育の為に積極的に関わりを受け入れてきています、
ただし、日本人の教育の概念は未だに知識の詰め込みが主流です、自分で考えるというものの、マニュアルがあり、教師の誘導型、操作型の教育方法であるのは変化ありません。
それは日本人が生活に不安を抱えているのが一因だと言われています。
学校や、教師へのかなり依存しアディクトして、丸投げ型教育のパターンが未だに継続しています、
教師の過労や激務で教師も疲弊している現状があります。
基本はグループワークでは無く、集団教育だからです。
それぞれの家庭の機能の変化もあり、子供自身にも変化があります。
本来ならば生活の一部としての教育なのですが、教育が偏重し肥大化していて、非常に社会システムとしては歪なのです。
そういった社会構造や社会システムなど、
人々の生活しているシステムにも多くの支障を抱えています。
そういった、自分を取り巻く環境についてもよく観察して、物事の本質に気づき、よく鑑別するとともに、その物事に対していかに自分か思うか、どう受け止めるかという作業も、自己覚知になります。
この自己覚知は、主体と客体がキイワードです。
自己の客体化と客体の主体化です。
ソーシャルワーカーの奥田力
(社会福祉士、精神保健福祉士)
0コメント