自分は思います、身体を自由に動かせるのは、その人にとっての御恵みです。
人生の途上には、さまざな事柄があります、
病気になるし、心身や脳の障害を抱えて不自由になるし、事故にあったり、怪我したり、昨日は秋田の添川で、40代後半の男性が熊に襲われて、全失明し頭蓋骨折というニュースがありました。
生まれつきや幼少期に目が不自由な方は、それに応じて必要な支援を利用して自立した生活を営んでいる人も沢山います。
支援制度が割と充実しているからです。
また、自分の不自由さをそれなりに受け止めて生きているからです。
しかし、中途障害を抱えてしまった人は、なかなかの試練なのです、
自尊心が崩壊して自暴自棄に成り、自傷他害の状態に陥る人もいます。
自殺を選択してしまう人もいます。
身体だけの傷では無く、心にもショックを受けたから、トラウマがあります、
大丈夫では無いからです、
心が弱いといいますが、心は脳と直結していますから、物理と精神とをよく大切にする事が賢明です。
今まで自由にできていた事柄が、不自由さを抱えるのは、非常に負担になり、重荷になります、その重荷を一緒に担う人が必要なのです、どんな事があっても、あなたを見捨てないよという人です、さあ一緒に歩もうと言う人が必要です。
人は弱い儚い、
極真空手の大山さんは、
ある時にヤクザに絡まれて怖かったそうです、自分がやられると思い、そうゆう恐怖心と自分の弱さを克服する為に、武道や格闘技を研究して来たそうです。
だから、
大丈夫それくらいで弱音を吐くななんては言える事柄では無いし、まして、俺も大変な事があったが俺は一所懸命に頑張って生きてきたぞ、だからお前も頑張れなんて言う言葉は決してかけては成りません。
これは、なんの励ましにもならないし、傷ついている人をもっと傷つけ侵害します。
その傷ついた人の命を奪い去る場合もある声がけです。
だから、親身になって、傷ついた隣人に寄り添い、話をきちんと傾聴する事です。
寛大さ寛容さ忍耐、仁慈を持って隣人に臨む事です。
深く複雑に傷ついている人は尚更です。
人は全く違う存在です、ユニークですから、
徹底した個別化が最善の対応です。
何かに当てはめ、分類は厳禁なのです、
あなたとわたしの信頼関係を構築するのが賢明です。
親子でも、友人でも、知人でも、
隣人でも、患者さんでも、生徒でも、
クライアントでも、
一人一人はユニークです、
一つの別けられた存在という意味ですから、
一人の人は非常に多様性がありますから
しかも複雑です、
いろんな思いや心情や感情や思想や考えがあり、多面的で、偏りもあります。
故に、互いに尊重し合う関係を築いていくのが望ましいです。
一方的な断罪や審判は、禁忌です。
自分も自分で裁かない事です、
よりよくアセスメントする事です、
そして多面的、多様な人、個人について、より善くを目指して関わる事が大切です。
身体が自由な人は、それは幸福の一つです、
より自分を隣人の幸福の為に活用したらもっと互いに幸せになれます。
自分にある能力や才能や知識や知恵や力などを有効に隣人の為に供与するのは、心持ちを良くします。
いろんなインパクトに柔軟に対応でき、臨機応変に自分の身を処せます。
故に障害などを自分の身の上に抱える事になっても、今よりもより善くという希望と信頼を捨てないで欲しいと思います。
適切な支援を利用しながら自立した生活は十分に出来ます。
自立とは完全に自力で生きる事ではありません。
いろいろな心身や脳の機能障害を抱えながらも適切な支援を受けながら主体的に自主自由な生活を営むのが自立です。
意固地にならないで生きる事です。
自分の母校には、
南原繁先生の直筆の扁額が第一体育館に掲げてあって、
天祐自助と記されています。
天は自ら助ける者を祐く
自助努力して、自分の不可能をよく知り、天にたすけを求める謙遜な心を持ちなさいという意味です、
そうしたら、様々隣人から支援が贈られてきますよという意味です。
自分だけの力でなんでもやって来たんだぞ、誰にも頼らずに自分だけの力で自分を成してやるぞという野心は捨てろよという意味でもあります。
様々支障で不可能なもの、出来ないものは出来ない事を剛健質朴にして誠実に受け止めて、自分の出来る事は懸命に取り組み、青雲の志を持って、どんな時も励めという意味です。
どんな人にも、どんな状態にある人にも、才能とタラントはあります、
それを見つけ喜び受け止め有意に有効に自分と隣人の最善の為に活用してみる事です。
そういう志を持っているのが賢明です。
白鳥入蘆花(芦花)という扁額は、校長室の壁にあります。
ソーシャルワーカー奥田力
(社会福祉士、精神保健福祉士)
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